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フランス文学、哲学・現代思想@aya_furukawa03

文学における〈異化〉効果

 

 文字によってものが形作られるとき、〈存在〉と〈認識〉の間には必ず時間差が生じる。目に映るものであればその姿を一度にとらえることができるが、それが〈書かれたもの〉となったとき、われわれはその部分をひとつひとつ認識していかなければならない。この〈認識〉にかかる時間は描写が緻密になされればなされるほど長くなってゆく。
 描写が緻密になると言えば、〈描かれるもの〉がより具体性を増していくと考える読者も少なくはないだろう。しかし、細かすぎる描写は読み手にその全体像を忘れさせる――もしくは想像さえさせない――のである。以下に挙げるのは『ボヴァリー夫人』において転校生として姿を現したシャルルの帽子についての描写である。

 

 それは熊の毛皮とカワウソの毛皮帽、槍騎兵のシャプスカフェルトの丸帽子、木綿の学寮帽、いずれとも見える複雑珍奇なかぶりもので、つまりは、その物いわぬ醜悪さが、白痴の顔にも劣らず深々とものをいう、哀れきわまる代物であった。それは卵形で、鯨骨の芯で張ってあり、縁はまるでソーセージを三重にぐるぐる巻きにしたような形で、うえに目をやると、二列の菱形模様がつづき、一列は天鵞絨、もう一列は兎の毛皮、境は赤い紐で仕切られている。

 

(本当はまだ続くけど断念…)

 

 数行にわたるシャルルの帽子についての描写は、読み手にひとつの〈帽子〉というまとまりのある物体を与えはしない。読み手の目が赤い紐をとらえたとき、そこにはすでに熊の毛皮やカワウソの毛皮は存在しないだろう。
 では、この描写が緻密であるがゆえに〈認識〉にかかってしまう時間の長さとはテクストに何をもたらすのか。それは、全体性の喪失である。部分に切断された〈もの〉は、見慣れたものからある種の違和感を示すものへと変化する。そしてこれが、〈異化〉の効果であるといえるだろう。