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フランス文学、哲学・現代思想@aya_furukawa03

未完成に、革命的に――ジル・ドゥルーズ「文学と生」(『批評と臨床』河出文庫)

Twitterベケットだったりドゥルーズだったりが好きって書いちゃったから(ほんまに好きやけど)、とりあえずはじめはドゥルーズからあげていきます。ね。

因みにわたしがはじめて読んだドゥルーズやったりします。

 

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 『批評と臨床』の第一章である「文学と生」では、プルーストの「美しい書物はすべてある種の外国語で書かれている」という言葉を用いながら「書く」という行為の本質について語られる。そこでドゥルーズは、文学は「生成変化」に関わるものであり、その最終的な目的とは「錯乱」の中から「健康」を創造することであると主張する。
 まず彼は文学とは個人的な体験などを物語ることではないと断言し、物語内容を「自分の父ー母」という類のオイディプス構造に還元しようとする精神分析的な解釈を否定する。その上で、神経症とは生のプロセスの停止状態であり、それとは反対に文学とは生の移行――生成変化による健康の企てであると彼は述べる。この生成変化とは「女に―なる」「動物に―なる」「分子に―なる」ということ、つまり、「女」「動物」「分子」といった既存の枠内で別のものへと移行していくその途中経過にある状態を指す。したがって、健康とはその「~のあいだ」「~の中」という状態にあることによって男/女といった二項対立の構造から逃れることを指すのである。例を挙げるなら、「人」は英語でman(=男)と書く。ここには男がメジャーなものであり、女がマイナーなものであるという固定概念がある。このマイナーなものであるとされる女が、女に―なるという移行のプロセスに入る――ドゥルーズの言う生成変化を起こす――ことによって男に対する女という対立から逃れることができるのである。そういった意味で、ここには二つのものを対比させることによって価値・権力を創り出していく構造に対する批判が含まれており(ここで想起されるのはファシズムマルクス主義の対立である)、彼の言う健康とはその権力構造から逃れ並列関係を目指すプロセスの中にあると考えられる。
 また、彼は「文学としての健康」は「欠如している一つの民衆=人民(ピープル)を創り出すことに存する」とも語る。ここでいう一つの民衆=人民とは世界を支配する人民ではなく、支配される人民――例えばプラハにおけるユダヤ人やアメリカにおける黒人――である。彼らは、その国の一国民でありながらそこから排除されている。そのため革命的に―ならざるを得ない。彼らはまさに先ほど述べた「~のあいだ」に、生成変化の只中にいるのである。そしてこの革命的に―なるという移行状態にある文学こそドゥルーズの定義するマイナーな文学なのである。それ故メジャーとされる言語もそれが「あの欠如した民衆=人民のために」書かれ、革命的に―なるときマイナーなものとなる。したがって「マイナーな」という言葉は一つの文学ジャンルを示すものではなく、文学そのものの内部に存在し、それが革命的に―なる条件を示すものと言えるだろう。
 ここで彼の言う錯乱の意味が明らかなものとなってくる。錯乱とはメジャーな言語がマイナー化するプロセス、すなわち言語の移行そのものであり、生成変化する過程である。ここで示される外国語とは単なる外国語を指すのではなく、母国語の中で使用される他言語、母国語が他者に―なるその状態のことを指すのである。ドゥルーズの言葉を借りるなら、錯乱とは「文学が母語の解体ないし破壊を行い」、それと同時に「統辞法の創造によって、言語の内部における新たな言語の創出をも行」い、そして「もはやいかなる言語でできているのでもないような〈ヴィジョン〉と〈聴覚〉の数々から成る外部あるいは裏面にまで運ばれる」ものである。それは時にメルヴィルの作品に表れる第三の人称(定冠詞の人称ではなく不定冠詞の人称)がもつ視覚のようなものでも、カフカの作品記に表れる吃音のように言語でさえないものであることもある。そしてその錯乱の中から健康が生まれるのである。だからこそ、文学が健康の企てであるとき、彼の言うように文学とは錯乱なのであり、錯乱は革命的に―なるという生成変化の中で「健康の尺度」となりうるのである。
 最後に「書くこと、それは作家とは別のものになることでもある」と彼は語る。文学の最終的な目標を知る作家たちは常に革命的―になり、作家とは別のものに―なる。彼がここで示した「書くこと」の本質とは、この作家自身の生成変化であると言えるだろう。それ故に、彼らは自らを作家と称するには常に未完成なのである。マイナーな作品が常に未完成に、生を移行していくのと同じように。